出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

架空感想文 5冊目『朝日に照らされた1足のスニーカーへ、私より』

 

 

『朝日に照らされた1足のスニーカーへ、私より』(ニナ・サンザ 著)

 

タイトル付けは難しい。

『赤光』や『檸檬』のような熟語タイトルは格好いいけど読みにくそうで、昨今のライトノベルのような説明的長文タイトルはある種のとっつきにくさがある。

 

だが、中には長さに関係なく心に染み入るタイトルがあるのも事実だ。

 

 

『朝日に照らされた1足のスニーカーへ、私より』はドイツで大ベストセラーとなった作品だ。

日本で映像化も果たしたので、ご存じの方も多いのではないだろうか。

 

新社会人のカイは友人のギュンターとルームシェアをしていた。しかしある日、靴だけを残してギュンターは忽然と姿を消してしまう。

カイはギュンター失踪の謎を明らかにするため、タイムリープすることになる。

 

これは、長いタイトルの作品を嫌厭していた己の愚かさを教えてくれた作品だ。

友情の尊さに、読了後思わず頭を垂れて涙を流してしまった。

友人のために自分は何ができるのか?それを考えさせられた。

 

 

あなたの一番の友人がどこかに行ってしまいたいと思っているとき、「どこにも行くなよ」と引き止める人はどれだけいるだろうか。

友人、ましてや誰よりも仲が良い友人が何かをしたいと思っているなら、応援したいと思う人がほとんどだろうと思う。私だってそうだ。

「自分のために現状のままでいてくれ」なんて、呆れたエゴに思えて、もしくは本当につまらないエゴで、口が裂けても言えない。

相手を想うなら尚更だ。

 

カイもそうだった。

友情に正解はなく、あるのは結果だけだ。自分の行動が何を引き起こしたか、という。

 

カイとギュンターは最初から最後まで最高の友だちだった。

何度タイムリープしても、それは変わらなかった。

 

相手の行動を見守っていても、無理やり引き止めて友情に亀裂が入っても、己の無力に打ちひしがれたとしても。

相手のことを想う限り、最高の友だちであり続けた。

 

 

行動は個人の一存に依拠しているように見えるが、その実かなり多面的だ。

 

例えば、誰かが突然いなくなったとき、「失踪」と聞くともっと相手のためにしてやれなかったのかと後悔するだろう。しかし「身を引いた」と言い換えると途端にこれは美談になる。

 

理由を知っているかいないかで、その行動自体が変化するのは興味深い。

 

ギュンターが何故「失踪」したのか、カイはそれを知るため時間を巻き戻す。

そしてこの言葉が変化するとき、初めて相手と己の行動を客観視することができるのだ。

 

 

タイトルの伏線回収をする本は名作だと相場が決まっている。

 

以下ネタバレなので未読の人は注意!

 

 

最後を読むまで、タイトルのスニーカーはギュンターの失踪の暗喩だと思っていたが、ラストの見事な伏線回収にはしてやられた。

 

最後のタイムリープで、目覚めるとギュンターがいなくなっていることにカイが気付く。

またダメなのかと絶望するカイの耳に、「タイムリープをしてきた」ギュンターの声が聞こえてくる。

まさかと思い、慌てて片足だけ突っ掛けてカイは外に飛び出した。

 

何故タイトルの1が漢数字ではないのか疑問だったが、このラストを読んで納得した。

「1足のスニーカー」は残されたギュンターのひと揃いの一足ではなく、再会を喜ぶあまり履きそこねた片方の靴のことだったのだ。

 

「私より」も、タイムリープするごとにつけていた日記に、後日この最後のタイムリープの結果を書き残したのだな、と察しがつく。

 

タイトル回収をする作品は名作だ。本当に。

 

この本を勧めてくれた友人、ありがとう。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

 

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考察しがいのあるタイトルがきたので楽しくなってしまった。

 

長文タイトルは当たり外れが激しいと思うのだけど、これはかなり読みたい。絶対いい作品。

 

 

 

次回予告 6冊目『明日の天気を教えてください』

 

 

 

架空感想文 4冊目『医学の落とし穴』

 

 

『医学の落とし穴』(佐々木 伸弥 著)

 

つい先日、こと座流星群が夜空を駆け巡ったらしい。

そういえば、ここ最近「あつまれ どうぶつの森」でフーコにやたらと遭遇していた気もする。

偶然だと思っていたが、もしやこの天体ショーをわざわざこんな離島まで見に来ていたというのか。お茶くらい出してあげれば良かった。

一緒に星を見ませんか?なんてなんともロマンチックではないか。

 

こと座からさらに目線を下に向けてみると、へびつかい座を見付けることができる。

 

へびつかい座は惜しくも12星座にレギュラー入りこそし損ねたが、それでも高い知名度を誇っている星座である。

しかし、諸説はあれど、この蛇使いがギリシア神話の医神だと知っている人はどれだけいるだろうか。

 

 

太陽、美、知、死、かつて人間が届かない領域はすべて神のものだった。

やがてそれらの物質・概念は人格を持ち、神話が形成されていった。

 

ちなみに私の推し神はバッカス(=デュオニュソス:酒の神)である。バッカスの絵画はどれもこれも飲んだくれているので面白い。

 

死を克服する医術も例外ではなかった。

古の人々にとって、医者は神にも等しかったに違いない。

シャーマニズムなど、医術と宗教が根を同じにするのも道理である。

 

 

科学が発展した現代でもそれは変わらない。

人類の寿命は伸び続け、病院に行けばどんな症状にも病名が付く。

 

『医学の落とし穴』はそんな現代の医療依存社会に警鐘を鳴らしている。

 

著者の佐々木氏は高名な社会人類学宗教学者であったが、社会の盲目的な医療信仰に危機感を覚え、本書を著したという。

タイトルに医学の名を冠していながら、人類学の視点で論じているのは斬新で非常に興味深い。

 

 

私が理性的だと感心したのは、医療批判に留まらず、反ワクチン批判をも行っている点である。

 

いわゆる「自然派」を推進する人々は医薬品を投与せずに治癒させることを目指す。

これが、子どもにワクチンを受けさせないなど過激な思想に発展してしまうことを挙げ、これもある種の医療信仰だと佐々木氏は述べる。

 

なるほど、何事も極端になると信仰の領域に達してしまうということだろう。

 

医学だけではなく政治だって恋愛だって同じだ。

極端に寄れば寄るほど周囲のことなど目に入らなくなる。だからこそ批判的な姿勢が大切なのだろう。

そういえば中庸が大切なのだとアリストテレスも言っていた。

 

 

「死なない人間」・「自然派の幻想」、そして話は「神は死んだ」に収斂する。

 

「神は死んだ」はかの有名なニーチェの言葉だ。佐々木氏は医療の発展により寿命の概念が崩壊し、「あの世」がなくなる未来を想定している。

 

死なないことは、果たして人類にとって喜ばしいことなのか?

蔦のように地上に張り付いて生きるだけの生き物は、人間と呼べるのか?

 

これに対して佐々木氏は、安楽死を肯定し、人間らしく生きることが最上の「生」であると結論付けている。

医療は人間らしくあることの補助であるべきだと。

 

 

医者アスクレーピオスは死して医神へと召し上げられた。

皮肉なことに、死んで初めて「死なない」存在になったのだ。

 

医学は死を克服するためのものではない。生を肯定するものなのだ。

 

死に盲目になってしまうことこそ、医学の落とし穴なのである。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

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いよいよ新書系を書くときが来たか…と覚悟を決めた。

医学!?この私に医学??と三度見くらいしたお題でした。

ある意味変化球だったよね。

 

 

次回予告 5冊目『朝日に照らされた1足のスニーカーへ、私より』

 

 

 

 

架空感想文 3冊目『ネモフィラの咲く頃』

 

 

ネモフィラの咲く頃』(梶本 三治 著)

 

人生の最期に添える花は何が良いだろう。

 

私の一番好きな花は向日葵で、特別な花はカラーだ。

どちらも春夏の花だからか、見ているだけで明るい気持ちになる。

いざ考えると迷ってしまうが、私は最期には向日葵を選びたい。

 

 

今日は『ネモフィラの咲く頃』について書いていこうと思う。

 

これは岸 恒太郎の『瑠璃唐草の森』を基にしており、幻想的な雰囲気をそのままに、より切ない物語に仕上がっている。

 

時は第一次世界大戦直前のアメリカ。国費留学生の草助とマリアは郊外の森の中で出逢う。戦争の開始と共に草介は、マリアに何も告げられないまま日本に帰国することになってしまう。戦争が終わった10年後、草助は思い出の森を訪れる。

 

 

ネモフィラ一年草であり、次の年に同じ花を咲かせることはない。

同じように見えても、それは違う個体の花なのだ。

 

では人間はどうだろうか。

小学校のクラスメイトと20年ぶりに同窓会で会ったとき、「やあ久しぶり、見た目が変わってまるで別人だなあ」なんて声をかけるシチュエーションもあるだろう。

しかし、声をかけた人の中では小学校のクラスメイトと20年ぶりに会った人は本当に「別人」であり、名前や仕草から同じ個体だという連続性を見出しているに過ぎない。

 

同一とはつまり連続していることなのだ。

 

そう考えると、去年のネモフィラと今年のネモフィラは、まったく違う細胞から成っていても人の中では「同じ」ネモフィラだと認識されているわけだ。

 

 

この「連続性」は『ネモフィラが咲く頃』の重要なテーマになっている。

 

陸軍少尉の父をもつ草助は、シベリア出兵に赴いた際に顔の左半分を負傷してしまう。

見た目がすっかり変わってしまった草助は塞ぎ込むようになり、まるで「別人」のようになってしまう。

 

一方でマリアも、ユダヤ系差別を受けて内面に大きな変化が起こる。

優しいだけの少女ではなくなり、人権闘争の先頭に立つ強い女性に変わっていった。

 

長年抱き続けていた相手へのイメージが崩れるとき、その胸に浮かび上がるのはどのような感情だろうか。

それでも想い続けるのは何故だろうか。

 

愛に連続性はあるのだろうか。

 

 

ちなみに、『瑠璃唐草の森』と『ネモフィラの咲く頃』はラストが大きく異なっており、前者は二人で森に消える(心中を示唆)最後となっている。

幻想小説を得意とした岸 恒太郎らしい最後といえるが、梶本はここに改変を加えることで現代作家としてのプライドを見せつけた。

 

私の好みでいえば原作のラストの方が好きだが、新しいラストの、誰もいない教会で草助の棺桶の中にネモフィラを敷き詰めるマリアの画は非常に美しいと感じた。

 

 

花ほど初恋の墓標にふさわしいものもないだろう。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

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ネモフィラってどんな花?と調べて、ちょうど今の時期の花だと知った。

オシャレッッッッッ!!

花言葉や名前の由来も調べた。

オシャレッッッッッ!!!!

 

 

次回予告 4冊目『医学の落とし穴』

 

 

 

架空感想文 2冊目『マリちゃんはプリンを食べない』

 

 

『マリちゃんはプリンを食べない』(内田 麻里子 著)

 

小学校の同級生に、少し不思議な変わった子がいた。

あまり関わりはなかったが、野草観察の時間にタンポポの束を私のところに持ってきて、「春って、広がれば広がるほどやわらかいんだね」とそのタンポポを私にくれたことは、今でも鮮烈に記憶に焼き付いている。

彼女はいま何をしているのだろう。

綿毛が飛ぶと彼女のことを思い出す。

 

 

今日は今年の本屋大賞候補にもなった『マリちゃんはプリンを食べない』について書いていこうと思う。

 

大人しくて勉強もできる優しいマリちゃんは、ちょっと「変わっている」。

いつも遠くを見つめているような眼をして、図書館によく籠もっているマリちゃん。どんな時でも自分の意見を持っていて、男の子にも負けないマリちゃん。あまり何を考えているか解らないマリちゃん。

そんなマリちゃんがある日、給食のプリンを見て突然泣き出した。

クラスのみんなは涙の真相を突き止めるため、それぞれ調査に乗り出した――。

 

本書は「あゆみ先生」・「ゆみちゃん」・「颯太郎」・「マミ」・「マリちゃん」の5章で構成される。

担任の先生、女友達、クラスメイト、妹と立場の違う視点から描くことによって、マリちゃんの人物像を浮き彫りにし、最終章で答え合わせを行う見事な構成は、やはり流石の内田麻里子と言えよう。ミステリー以外でもその才能を遺憾なく発揮している。

 

 

個性の保護と人格の尊重はイコールではない。

個性は客観的に把握できる人間の部分であり、人格は人間に内包された意思のベクトルである。

個性を「伸ばす」・人格を「疑う」とあるように、我々は個性をより物質的に、人格を精神的に把握しているのは明白だ。

 

しかし、現代の学校の人格教育は「個性を伸ばす」方向で行われている。

 

内面の果実をつけるために外面の畑を耕している矛盾を、知ってか知らずか教育者は押し続けているのだ。

『マリちゃんはプリンを食べない』はその問題点を鋭く暴き出した。

 

 

マリちゃんは変わった子だった。「視点が独特」という個性をもっていた。

マリちゃんは繊細な子だった。少しの罪悪感も許せない性格だった。

 

あゆみ先生の章で、「あの子は変わってるから……」とSOSのサインを見落としてしまった後悔が綴られている。

独特な視線を否定しまいとするあまりに、心の揺れを察知することができなかった。それは、個性信仰の弊害と言える。

 

思うに、人と接するには2つの見方が必要で、ひとつは(A)「この人はこんな傾向がある」と受け入れる視点、もうひとつは(B)「それはそれとして、何故この人はこんな言動をするのか」と探る視点である。

 

例えば、怒りっぽい人が怒っているとき、(A)この人はよく怒る (B)今回は何が原因で怒っているのか を考えて初めて、相手とのコミュニケーションが開始される。

しかし個性信仰で凝り固まっていると、(B)のフェーズを見逃してしまう。

 

 

そういう点では、子どもはなんとも単純だ。

「個性」などという不可視な物質を意識せずにいられるのだから。

 

ゆみちゃん・颯太郎・マミはそれぞれの距離感でマリちゃんを観察している。

内田麻里子の上手いところは、マミの章を入れることで、家庭での姿=素顔を答え合わせの前に示したことだろう。

 

学校と家庭での違いは、「個性」の有無にある。

 

「個性」というフィルターをかけられたマリちゃんは本当にマリちゃんなのか?

それを問うのがこの章だ。

 

そして、「本当の自分」の限定性を我々に突きつけてくる。

 

 

タンポポの彼女は、私にとって衝撃そのものだった。

 

何が衝撃だったのか?

大して仲良くもない私にいきなり話しかけてきたことでも、言っていることが意味不明だったことでもない。

 

不意に、彼女の内面の銀河に触れたような気がして、その感触に驚いたのだ。

 

 

 

※書名・作者名・内容すべて妄想です。

 

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早速お題箱で遊んでくれた方、ありがとうございます。

 

「人名+○○ない」構文はタイトルとして非常に優秀なんですよね。

見た人に内容を想像させるタイトルで。

 

 

次回予告 3冊目『ネモフィラの咲く頃』

 

 

 

架空感想文 1冊目『足の裏が伸びない』

 

 

Q:架空感想文とは?

A:架空の本のタイトルをもらい、勝手に内容を想像しながら感想文を書く遊びである。

※書名・作者名・内容、挙句の果てに今回は感想文の書き手もすべて妄想です

 

 

『足の裏が伸びない』(苗田ハイチ 著)

 

少し前に自宅でペペロンチーノを作ろうと思ったのだが、見事に失敗してしまった。薄味の中に辛さが効いたあの繊細な味は、絶妙なバランスの上に成り立っていたのだと実感した。

その日の夜に苗田氏がインスタにあげていたペペロンチーノは、いつもよりも美味しそうに見えた。

 

『足の裏が伸びない』はグルメライターの苗田氏が出している路地裏グルメ雑誌「MeNew」の人気コラムを集めた本である。

 

紹介されたメニューの再現レシピのコーナーには私もかなりお世話になっていたので、このような形でまとまって嬉しい限りだ。下北沢ペペロンチーノの作り方も載っていたので、早速明日作ってみようと思う。

その他にも、隠れ家カフェの店主インタビュー、こだわり内装、予算別マップなど「MeNew」ファン垂涎の本となっている。迷う間もなく買いの本だろう。

 

 

以前、苗田氏とお仕事をさせてもらったとき「大通りは地面からもう美味しいんだ」と苗田氏は言っていた。そのときは意味が分からなかったが、この本のあとがきを読んで、ようやく理解した。

 

高校の現代文で鷲田清一の「身体、この遠きもの」を読んだ。当時は「身体は皮膚を超えて伸縮する」という主張に目から鱗を落としながら首をひねったものだ。頭では理解してその新たな視点に感動したが、日常でそれを意識的に感じることはなかった。

やっと、いま、苗田氏を通じて私の身体は空間的に広がったのだ。

 

お昼時に大通りを歩いていると、蕎麦屋やらイタリアンやらの看板が目に飛び込んでくる。無意識に眼が食事を求め始めているのだ。

次に食事を意識すると、辺りに空腹を刺激するにおいが漂っていることに気付く。

それから頭が「ああ、腹が減った」なんて遅れて食事の支度を始める。身体中の神経に「昼飯を選べ!」と偉そうに命令をする。

そうして”私”は目的の店へと足を向けるのだ。

 

身体が食事を意識し始めた時点で食事は始まっている。「今日はパスタの口なんだ」とよく言うように、ものを食べる前から身体はすでに味わっているのである。

 

「地面からもう美味しい」の「地面」とは、食事に向かう足取りのことだったのだ。

 

そう思うと確かに、何を食べようか、などとウキウキしながら店選びをしてぶらつく瞬間は、この上ない食事体験と言えよう。

 

 

しかし、今作は「足の裏が伸びて」いない。

 

何故か。

その答えが件のあとがきだ。

 

『足の裏が伸びない』を読んだ方々はもう解っていると思うが、この本は「路地裏」だけにフォーカスを当てたグルメのコラム集である。

歩いているだけで美味しいのが大通りなら、路地裏はどうだろう。

 

苗田氏の答えは「自然の流れが存在しない。だから美味しい」だ。

 

以下はあとがきの一部引用である。

何故ぼくが路地裏グルメ雑誌をつくり始めたかというと、路地裏には自然の流れが存在しない。だから美味しい。そう思ったからだ。

たとえば、人の往来が多い場所は必ずごはん屋が集まる。人は吸い込まれるように自然とそこに入る。大通りはだれもが想像できる味なんだ。

一方で、路地裏は入り組んでいて見つけにくいお店が多い。だからぼくは歩いてお店を探さなきゃいけない。足の裏が自然と味につながっているわけじゃない。でも、最初から足がお店へと伸びていないからこそ、複雑な想像の味が生み出される。ぼくはそう思ったんだ。

 

 

食事とは一連の体験である。

ただものを咀嚼するだけではなく、想像力や身体状態も組み合わさってはじめて一つの経験として消化される。

 

重要なのは物質の味ではなくて、空間丸ごとの味なのだ。

 

昨夜の不味いペペロンチーノも、”美味しい”経験に違いない。

 

 

 

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コロナ自粛期間の遊びとして、架空感想文の題を募集しています!

どんな題でも架空の本にするので、暇な方はぜひ一緒に遊びましょう。

 

 記念すべき第一回はいつもの友人から天才的なタイトルをもらいました。

 

 

 

 

漂泊の思い、未だ止まず


コロナのせいでいつもにも増して生ぬるい生活を送っている。
今夜中にESを書かなくてはいけないのだが、まったく気が乗らないのでこうして文字を打っている。
観劇予定もすっかりなくなり、最近観た映画も私的に微妙で、とりあえず閑話休題。リハビリとして好きなことを書き綴ろうと思う。

ちなみに最近観た映画は以下である。
『A CURE FOR WELLNESS』
『ウィッチ』
前者は不気味な話が好きならまぁ…私はとっ散らかった脚本があんま好みじゃなかったです。
後者は時代考証がガチで空気感がとても良かった。幸運ファンブルしまくりのTRPGって感じ。ただそこまで刺さらなかったね。


さて。
何を書こうか迷っていたが、私の妄想旅行計画を聞いてほしいと思う。


あれは高校2年か3年のときだったか。もしかしたらもっと前かもしれない。
きっかけは草枕を読んだからか、突然頭に降って湧いたからかも覚えていない。
ともあれそのとき、自身に詩情がまったく備わっていないことに気づいてしまったのだ。

私は詩を軽視していた自分を恥じた。

カルピスでいえば、原液が詩で水割りが文章だというのに。
私は原液をそのまま飲む贅沢を知らなかったのだ。
教養の土壌が貧しかったために、カラオケのほぼ水カルピスこそが本物だと思い込んでいた。
ああ情緒よ、君を泣く。君死にたまふことなかれ。


そして私は旅に出ようと決めた。

まず最も足りないのは自然を解する心だと思ったのだ。

山を見ても「山だなあ」、田んぼを見ても「カエルだあ」。
あゝ無情。君死にたまふことなかれ。

盆地に育ち早20年、山とはそれなりに心を交わしてきた(?)はずなのに、残念なほど何も育まれていないじゃないか!

もう自然のど真ん中に放り出されるしかない!!!


そして私は旅に出ようと決めた。


私は電車が好きだ。
ゆらゆら揺れるのが心地よいのと、座っているだけで移動という目的を果たしているのが楽でよい。

だから、電車で遠くの田舎まで行きたい。

ノートとペンと財布、本当は置いていきたいのだがもはや生活の一部なのでスマホ、あとウォークマンだけ持って。
なんとなくよさそうな電車に乗って、終点まで揺られて、詩情が沸いてくるまで夕暮れを眺めていたい。
落日を誰そ彼と呼び、さざ波の向こうに金星を見つけたい。私はロマンチストなんだ。

日が暮れたら温泉付きの旅館に戻り、その日感じた自然について書き付けておく。
軽トラの荷台で野宿も捨てがたいが現実的に難しい。

夜は星を見上げて、星辰の調べに耳を傾けるのだ。
視界の端に溶け込む漆黒の山々に背筋を震わせながら、少し冷たい夜風を鼻先で受け止める。
そうすればきっと、自然の心も近づくんじゃないか、と。


雨の日もいい。
曇り空はどこまでも落ち着く。
昼に目覚めて、傘を差して、また鈍行に乗り込む。

終点で降りて、また夕日を追う。

雲に隠れた落陽を想う。


ひとり分の足音を雨音に乗せて、地球とひとつのリズムを奏でよう。

 

最近思うことには、種田山頭火の俳句はやけに沁みる。
「分け入っても分け入っても青い山」最も有名だが、私はこれが一等好きだ。

まず「分け入る」で視界が開ける感じがある。
しかし、どんなに視界が開けても同じ景色が広がる、という終わりのなさが山の深さや恐ろしさをよく表している。
世にも奇妙な物語で「峠の茶屋」という話がある。これはなかなか怖い話なのだが、この句もそんな趣を隠し持っている気がする。
それでいて爽やかにまとまっているのが実に秀逸なのだ。


こんなふうに自然を表現できるようになりたいものだ。

 

そろそろESを書かないと本格的にまずい。
ということで、今日はこのへんで。

 

 

悪夢のメタ構造

 

※映画『パラサイト 半地下の家族』のネタバレを含みます。

 

 

今日は素足でバッタを踏む夢をみた。

バッタといっても羽が大きくて、全長2cmくらいの羽虫のような形だった。何故それをバッタだと認識したのかは分からない。

私はなんとしても避けたかったのだが、踏んでくれと言わんばかりに足下に出てくるので、なんだかんだで踏んでしまったのだ。

ザラザラしていた。

 

そのあとバッタの大軍に襲われるのだが、あまりよく覚えていない。思い出したくもない。おお恐。

 

外と室内の寒暖差が激しい冬は、どうにも悪夢をみやすいようだ。理由は知らない。実際に気温が関係するのかもわからない。

昨日は真っ黒の人が刃物?を持って侵入してくる夢をみた。

求:安眠

 

まぁ喉元過ぎれば熱さも忘れるものだけど。

 

本題に移ろう。

 

 

かのバレンタイン。

同期と後輩とで映画を観に行った。巷で話題の『パラサイト』を観てみようじゃないの。

ちなみにこの後輩を誘ったのは、料理上手でバレンタインのお菓子をくれるんじゃないかという下心からだったが本当にくれた。ありがとう。メチャ美味しかったです!

 

そういや韓国映画を劇場で観るのは初めてだったと後々気付いた。韓国映画ってあまり日本では大々的に公開しないよね。私が知らないだけかな?

 

 

前情報として、台湾カステラが韓国で流行したけどすぐ廃れて借金抱えた人が沢山いるとか、安いドライバー食堂があるとか、半地下の家賃はかなり安いとか、そんなことを頭に入れていった。

でも、韓国について知らなくても楽しめる作品だった。もちろん、作品を深めるには情報はあればあるほどいいけどね。

 

最初ポスターを見てホラーだと思い、公開してから社会問題スリラー?と聞き、実際観てコメディと格差の哀しさがないまぜになった作品だと思った。

まさに「人生は近くで見ると悲劇で遠くから見ると喜劇」とはこのことである。

 

 

あらすじは、半地下に住む貧乏家族がひょんなことから頭の悪い金持ちの家で働くようになり、最初は好き放題するが次第に埋められない格差に首を絞められていく…というものだ。

ところで、どうして金を持ってる人は上の方に住みたがるのかね?(偏見) 私の地元の田舎も「丘の上」と「丘の下」で地価が違った。らしい。今は人がいないしキッツい坂の上なんか住みたいとは思わないけど。

 

私はどちらかというと半地下根性を持ち合わせているので、貧乏家族の成り上がりっぷりといったら爽快だった。

 

 

物語の最初に、息子の友人が家庭教師先を紹介してくれる。この友人は、生徒の写真を見せながら(携帯に生徒の写真を入れるな)「可愛いだろ。この子が大学生になったら正式に付き合うんだ」とか仰ってやがった(生徒に手を出すな)。

いきなり最悪である。生徒に手を出すとか正気か???塾講師をやっていた身としては、その倫理観のありえん緩さに笑うしかない。

大学至上主義の弊害か、それとも道徳の敗北か。勉強が出来れば何してもいいのか??

いいのかもしれない。学歴主義とはそういうことなのかもしれない。

いい大学に入れてくれるならなんでもしますよ、みたいな。わからん。

 

しかし、この生徒も曲者で自ら大学生講師を誘いにかける。いやでも乗るなよ成人〜〜〜〜〜!!!脳みそ下半身に付いてるのか?????というかこれで息子は友人も雇い主も裏切ったことになるのにいいのか??

自制心のなさバイキンマン以下か?

 

話の初っ端からキレ散らかしてしまったが、こうして狡猾な貧乏家族は世間知らずの金持ち家族に入り込んでいくのである。

 

私の推しは息子の次に家庭教師になりすます娘だ。

冷静沈着、怜悧で機知に富み、道を切り拓く大胆さと賢さゆえのユーモアも持ち合わせている。ひとことで言って友だちになりたい。

愚者の高枕を蹴飛ばす女(概念)、うーん好きだ。

適当なことを言って美術の家庭教師の地位を手に入れたときの「あいつらバカじゃね?」的な言動が良い。自分の賢さに自覚があって、それを上手く使える女はいつだって輝いている。

もちろん、良い意味でも悪い意味でも。

 

あとの父母参戦!で映画はコメディとしての最高潮を迎える。

チリソースティッシュ inゴミ箱は本当に最高でしたね。ああいう、クラシック的な音楽を背景にスローモーションで酷いことが起きてる画が好きなんですけど解る人います?

 

 

後半戦は格差社会の闇が描かれる。

 

差別はどこから始まるのだろうか。

目だろうか?否。耳だろうか?否。ポン・ジュノ監督の答えは「鼻」だ。

 

歴史から見て、醜い見た目は差別されてきた。人間は見た目が何割なんだのという本も発売されているくらいだ。

では、すべての人間の見た目が同じだったら、次はどこに格差が生まれるのだろうか。そう、臭いである。なぜヨーロッパで香水が作られるようになったか、なぜコミケの前は風呂に入れと言われるのか。

それは、臭い人間はそれだけで無条件に嫌われるからである。

声を聞いてもらう、内面を知ってもらう以前の問題なのだ。

 

貧乏家族が金持ち家族に完全にパラサイトしたあと。金持ち:父親から「新しい運転手(貧乏:父)はいい人なんだが臭いんだよなあ(意訳)」と言われる。

においとは自分では気づきにくいものだ。生活臭ともなれば尚更。

 

 

考えてもみれば、私たちは"におい"を生活ないし人生の延長線として捉えている。

 

「嫌。あの人のにおいが染み込んだ家になんか帰りたくない」

例えばこんな文があったとする。ここでの「におい」とは「思い出・記憶」と言い換えることができるだろう。

また、記憶に残りやすいのは匂いらしい。『NANA』でヤスだかミューさんだかが言ってた。早くNANAの続刊出してください。ナナとレイラを!なんとか!!してあげて!!!

 

NANAはいいぞ。夢と憧れとしんどさと辛さとやるせなさが詰まってる。

ちょっと逸れた。そうだ、においの話だ。

 

そういうわけで、においはその人の人生であると言えよう。

映画の「あの人は臭い」とはすなわち貧乏人生の否定なのである。

 

 

作中には3つの住処が描かれる。

坂の上の豪邸、半地下の家、豪邸の地下室だ。

これらが示しているのは、まさしく現代社会に他ならない。

 

坂の上の豪邸に住む人々は「よく陽の当たる」人生を送る。半地下の人々は折を見て地上に出ては「俺はここにいるぞ」と存在を示す。地下室の人間はなるべく見つからないように「いるはずのない幽霊」として生きるしかない。

上手い。上手いつくりだ。アカデミー賞審査員もさぞかし唸ったであろう。

 

ダメ押しと言わんばかりのラストも、動機に関わらず、豪邸の主人は「被害者」で、半地下の人は「加害者」で、やはり地下の人間は最凶悪犯なのにあまり報道されない「幽霊」であることを確認させてくる。

肯定・否定・そもそもない の三つ巴の構造をここまで見事に描ききった映画はそうないだろうと思う。

 

 

悲しかったのは、私の推しの運命だ。

私は、賢くて面白くて機転が利く人が好きだ。そういう人は自分の役割を理解したうえで、掌の上で遊ばせてくれる。

件の頭が切れて現実的で目的のためには手段を選ばない女は輝いていた。愚鈍な人間とゴミの区別がついていないような女は輝いていた。賢い人間はいつだって自分の立ち回りを解ってる。

良い意味でも、悪い意味でも。幕切れのときも。

哀しい。

 

 

ちなみに、最後の最後は少し蛇足じゃないかな~?とは思ったが、地下に堕ちた人間にも希望はあると思えば、アリなのかもしれない。

 

 

 

この話は数日に渡って書いていたのだが、その間にも悪夢を見続けている。

直近の悪夢は身内が死ぬ夢だ。昨日は悪夢じゃなかったかな?覚えていない。

 

胡蝶の夢はみなさんご存知だろう。そして一度は考えたことがあるかと思う。つまり、この現実は誰かの夢なのでは?と。

 

悪夢をみる私がここにいる。

悪夢をみる私は、格差社会という悪夢のような現実を描いた映画を観た。

 

 

悪夢をみる私は、もしかすると誰かのみる悪夢なのかもしれない。

そう思うと今日も寝付きが悪い。