出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

車は走る、どこまでも

 

 

それは、夕暮れの山道。

深緑と黒とが、次々と眼前に迫っては遠ざかっていく。

そんな景色を視界に留めながら、「ループって怖いよね」、なんて思う。

 

「ループって怖いよね?」

この幽かな恐怖心を自分ひとりで抱えたくないがために、横で運転する友人に訊いてみた。「怖い!」と即答してくれる。

私はその答えに満足して、車内はそのまま怪談トークに移行した。

 

車は山と山の間を進み、黒のうちに沈んでいった。

 

 

日本に住んでいて良かったと思う理由のひとつに、山に恵まれている点が挙げられる。

 

私は山にほど近い地域で育っているため、そこはかとない山岳信仰が自身の中に根付いているのを感じている。

 

軽い気持ちで山に入ると危険だ、とは小学生のうちに教わることである。もちろん、ヤマビルの脅威や天候変化の危険性も学んできた。

それでも、整備されていない本当に深い山に足を踏み入れたことはない。いつも遠くから、時に近くで眺めるだけで、入ったらきっと恐ろしい目に遭うと意識の底で何かが囁いている。実際どうかは別として。

 

そんなわけで、私は山の怪談はほとんどが何かしらの事実に基づいているのだろうと信じている。

神隠し伝説は実のところ遭難事故かもしれないし、山に住む何者かに攫われたのかもしれない。でも、誰かがいなくなったのは事実なのだろう。

 

そう考えると、山岳地域の民話が一気に生々しさを帯びてくる。

そして、怪談収集に余念がない私は「民話が最も怖いのでは?」説に辿り着いた。

 

 

さて。山岳地域の民話集といえば。

そう、言わずと知れた『遠野物語』(著:柳田國男)の出番である。

 

遠野物語』は、岩手県の遠野地方の民間伝承を集めた本で、神や妖怪、山男(山女)、迷い家など様々な話が収録されている。

明治期の文語体だが、ひとつひとつの話は短いためかなり読みやすい。そしてなんといっても、面白い。ゾッとする面白さがある。

 

これまで『遠野物語』に触れる機会はあることにはあった。

高校生の頃に授業をほっぽらかして教科書か何かを読んでいたとき、ある幽霊譚の話を見つけた。詳細は忘れたが、「『遠野物語』のおばあさんの霊が炭籠に触れて、炭籠がくるくると回った話で、かの「くるくる」こそが『遠野物語』を文学たらしめている」というようなことが書いてあった。当時はそれを読んで、よく分からないなと思った。

大学の文学史の授業で、「『遠野物語』の最も恐ろしいといえる文章」を扱った。曰く、「地面から数センチ浮いている描写は、じわりとした恐ろしさが滲み出てくる」こんなようなことだ。文章を読みながら、これのどこが怖いんだ?と思った。

 

いま思うことには、『遠野物語』はこの上なく日常に寄り添った、恐ろしい文学作品である。過去の私は、ものの価値を知らない愚か者だった。

 

 

文学の定義は非常に難しい。

文章の分類は価値観の分類である。しかし人の価値観は緯線経線のように奇麗に切り分けられるものではない。

だから、私は文学を「感情の深度」で定義付けておこうと思う。

それを読んで、どれほどのことを感じ入るか、というわけだ。

 

件の「くるくる」が文学的かどうかは話が長くなるので置いておいて、今は別の幽霊の話をしたいと思う。

 

第99話で大津波で死んだはずの妻に会う男の話がある。

男が波打ち際を歩いていると、霧の中から男女が出てくる。よく見るとそれは大津波で死んだはずの妻と、婚前妻が慕っていたこれまた津波で死んだ男の姿であった。話しかけると、妻が今はこの人と一緒になっていると言う。「(自分たちの)子どもが可愛くないのか」と問うと、妻は泣いて消えてしまった。という話だ。

妻目線では、死を超えて結ばれた大恋愛譚である。夫目線では、心苦しくやるせない話である。

この、読み手を含めたそれぞれの心の動きこそが文学なのだ。これを文学と呼ばずして何と呼ぼうか。

 

また、最も怖かった話も紹介しておこう。

第9話、笛の上手い男が、夜に笛を吹きながら仲間を引き連れて白樺の生い茂る谷の上を通ったとき、谷の底から「面白いぞー」という叫び声が聞こえた、という話だ。

短い話ながら、恐ろしい。

まず大前提として、谷は漆黒の闇であること(梶井基次郎の『闇の絵巻』のイメージ)、そして谷底は沢であるということを念頭に置くと、より恐怖が深まることだろう。

 

沢は、川にはなりきらないが、一定以上の水量が流れる場所のことである。

山で遭難した際、最も行ってはいけない場所とされている。(遭難したときは、来た道を引き返すか山を登るのが正解で、沢や滝まで下ると滑落の危険がある)

 

この谷底の人は、なぜ真っ暗闇の谷底にいたのか。ましてや白樺林の広がる沢だ。

遭難して動けない人にしては、「面白いぞ」などと呑気な声掛けはどう考えてもおかしい。盗賊にしても、そもそも声掛けは自殺行為だろう。

 

この話は『遠野物語』の中で「山男」に分類されている。

山男の正体が人間でもそうでなくても、ゾッとする話ではないか。

 

そこに「なにかいる」、それ自体が異常なのだから。

 

 

山はおおむね豊かで受容的だ。

生物がいて、広さも高さもある。

頂上からの眺めはとても良い。

山中の木漏れ日はもはや文学といっても差し支えない。

 

でもやっぱり、私は山の神秘と不気味さにロマンを感じたい。

 

私が一番好きな詩は、種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」だ。

まさに山の神秘と不気味さを表している。

この詩を読むと、自然と深い山の情景が瞼の裏に浮かび上がる。

 

それは、夕暮れの山道。

深緑と黒とが、次々と眼前に迫っては遠ざかっていく。

そんな景色を視界に留めながら、「ループって怖いよね」、なんて思う。