出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

車は走る、どこまでも

 

 

それは、夕暮れの山道。

深緑と黒とが、次々と眼前に迫っては遠ざかっていく。

そんな景色を視界に留めながら、「ループって怖いよね」、なんて思う。

 

「ループって怖いよね?」

この幽かな恐怖心を自分ひとりで抱えたくないがために、横で運転する友人に訊いてみた。「怖い!」と即答してくれる。

私はその答えに満足して、車内はそのまま怪談トークに移行した。

 

車は山と山の間を進み、黒のうちに沈んでいった。

 

 

日本に住んでいて良かったと思う理由のひとつに、山に恵まれている点が挙げられる。

 

私は山にほど近い地域で育っているため、そこはかとない山岳信仰が自身の中に根付いているのを感じている。

 

軽い気持ちで山に入ると危険だ、とは小学生のうちに教わることである。もちろん、ヤマビルの脅威や天候変化の危険性も学んできた。

それでも、整備されていない本当に深い山に足を踏み入れたことはない。いつも遠くから、時に近くで眺めるだけで、入ったらきっと恐ろしい目に遭うと意識の底で何かが囁いている。実際どうかは別として。

 

そんなわけで、私は山の怪談はほとんどが何かしらの事実に基づいているのだろうと信じている。

神隠し伝説は実のところ遭難事故かもしれないし、山に住む何者かに攫われたのかもしれない。でも、誰かがいなくなったのは事実なのだろう。

 

そう考えると、山岳地域の民話が一気に生々しさを帯びてくる。

そして、怪談収集に余念がない私は「民話が最も怖いのでは?」説に辿り着いた。

 

 

さて。山岳地域の民話集といえば。

そう、言わずと知れた『遠野物語』(著:柳田國男)の出番である。

 

遠野物語』は、岩手県の遠野地方の民間伝承を集めた本で、神や妖怪、山男(山女)、迷い家など様々な話が収録されている。

明治期の文語体だが、ひとつひとつの話は短いためかなり読みやすい。そしてなんといっても、面白い。ゾッとする面白さがある。

 

これまで『遠野物語』に触れる機会はあることにはあった。

高校生の頃に授業をほっぽらかして教科書か何かを読んでいたとき、ある幽霊譚の話を見つけた。詳細は忘れたが、「『遠野物語』のおばあさんの霊が炭籠に触れて、炭籠がくるくると回った話で、かの「くるくる」こそが『遠野物語』を文学たらしめている」というようなことが書いてあった。当時はそれを読んで、よく分からないなと思った。

大学の文学史の授業で、「『遠野物語』の最も恐ろしいといえる文章」を扱った。曰く、「地面から数センチ浮いている描写は、じわりとした恐ろしさが滲み出てくる」こんなようなことだ。文章を読みながら、これのどこが怖いんだ?と思った。

 

いま思うことには、『遠野物語』はこの上なく日常に寄り添った、恐ろしい文学作品である。過去の私は、ものの価値を知らない愚か者だった。

 

 

文学の定義は非常に難しい。

文章の分類は価値観の分類である。しかし人の価値観は緯線経線のように奇麗に切り分けられるものではない。

だから、私は文学を「感情の深度」で定義付けておこうと思う。

それを読んで、どれほどのことを感じ入るか、というわけだ。

 

件の「くるくる」が文学的かどうかは話が長くなるので置いておいて、今は別の幽霊の話をしたいと思う。

 

第99話で大津波で死んだはずの妻に会う男の話がある。

男が波打ち際を歩いていると、霧の中から男女が出てくる。よく見るとそれは大津波で死んだはずの妻と、婚前妻が慕っていたこれまた津波で死んだ男の姿であった。話しかけると、妻が今はこの人と一緒になっていると言う。「(自分たちの)子どもが可愛くないのか」と問うと、妻は泣いて消えてしまった。という話だ。

妻目線では、死を超えて結ばれた大恋愛譚である。夫目線では、心苦しくやるせない話である。

この、読み手を含めたそれぞれの心の動きこそが文学なのだ。これを文学と呼ばずして何と呼ぼうか。

 

また、最も怖かった話も紹介しておこう。

第9話、笛の上手い男が、夜に笛を吹きながら仲間を引き連れて白樺の生い茂る谷の上を通ったとき、谷の底から「面白いぞー」という叫び声が聞こえた、という話だ。

短い話ながら、恐ろしい。

まず大前提として、谷は漆黒の闇であること(梶井基次郎の『闇の絵巻』のイメージ)、そして谷底は沢であるということを念頭に置くと、より恐怖が深まることだろう。

 

沢は、川にはなりきらないが、一定以上の水量が流れる場所のことである。

山で遭難した際、最も行ってはいけない場所とされている。(遭難したときは、来た道を引き返すか山を登るのが正解で、沢や滝まで下ると滑落の危険がある)

 

この谷底の人は、なぜ真っ暗闇の谷底にいたのか。ましてや白樺林の広がる沢だ。

遭難して動けない人にしては、「面白いぞ」などと呑気な声掛けはどう考えてもおかしい。盗賊にしても、そもそも声掛けは自殺行為だろう。

 

この話は『遠野物語』の中で「山男」に分類されている。

山男の正体が人間でもそうでなくても、ゾッとする話ではないか。

 

そこに「なにかいる」、それ自体が異常なのだから。

 

 

山はおおむね豊かで受容的だ。

生物がいて、広さも高さもある。

頂上からの眺めはとても良い。

山中の木漏れ日はもはや文学といっても差し支えない。

 

でもやっぱり、私は山の神秘と不気味さにロマンを感じたい。

 

私が一番好きな詩は、種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」だ。

まさに山の神秘と不気味さを表している。

この詩を読むと、自然と深い山の情景が瞼の裏に浮かび上がる。

 

それは、夕暮れの山道。

深緑と黒とが、次々と眼前に迫っては遠ざかっていく。

そんな景色を視界に留めながら、「ループって怖いよね」、なんて思う。

 

 

 

 

 

 

ホラゲー讃歌・草稿



どうして感想文置き場を設置したかって、こういう昂って語りたいときのためだった。思い出した。

いつかちゃんとした形で書きたいけど今日は取り急ぎ。



ホラー映画、ホラー小説、ホラー漫画、ホラーゲーム、どの媒体のホラーも好きだ。

ゾッとするあの感じが堪らない。

科学的には、脳の恐怖を感じる回路は快感回路と隣接してて、実際恐怖で快感を感じるとかなんとか。ソースは知らない。

動物に襲われたり食べられたりして死を目前にした人は、痛覚より快感が優勢になるらしいけどそういう感じ?いや、あれはアドレナリンの作用か。

まぁいいや。


ちなみに、トラウマホラー映画は『仄暗い水の底から』、一番ゾッとしたホラー文章は2chの意味が分かると怖い話群、好きなホラー漫画は『不安の種』、マイベストホラーゲームは「サイレントヒル」。


今回はホラゲーについて語りたくて、こうして睡眠時間を粉にしている。



人生で最初にやったホラゲーは何だっけか。THE HOUSEだっけ、あれは誰かがやってるのを見てただけだっけ。

はっきり記憶にあるのはPSPサイレントヒル ZERO。本編もやってないのにZEROからやるという、今にして思うとひどい外道。

操作性もカメラ位置もあんまりだったけど、ビジュアル満点!もうそれだけでプラマイプラス!って感じだった。気がする。

サイレントヒルはねえ、宮崎駿に見せたら激怒されそうなクリーチャーが良いのよ。人間の業を煮詰めました!みなさん悪食でしょ!美味しく食べてください!!みたいな。

肉屋さんが格好良かった。犬は一生許さない。


自分のクリーチャー好きがどこから来たのか分からない。遊戯王はやったことないし違うと思うのよね。

やっぱあれかな、育ったのが現代アートがある環境だったからかな。それ以外思いつかない。小学生のときに見たレベッカ・ホルンの映像アートとか衝撃的だったな。あの、仮面で線を引くやつとか。

絶対原因これじゃん。

いや、保育園のときに観た『仄暗い水の底から』説もある。あんなん保育園児に見せる映画じゃないわ。可哀想な私。観てからしばらくトイレに行かなくなったな。


えーと、そうそう。サイレントヒルはクリーチャーが良いって話。

クリーチャーでいうとSIRENの屍人もかァなり良いんですけどね。ゲームが難しいらしくてやったことないんですよね。SIRENのあの有名なCMは本当に最高。あれ見るだけでやりたくなる。CMとしてあまりにも正しい。あと恋の三角海域SOSも好き。ゲームやりたい。

ひぐらし的な田舎要素もいいよね。私が民俗学に興味を持ったのも、結局日本で最も怖いのは土着の民話では?と思ったからだしね。まだ遠野物語読んでないから分からんけど。


PS2世代としては「零」シリーズも忘れない。

ゲーム実況を初めて見たのがこのシリーズだったかな?まだこんなに実況が流行ってない頃。どれが最初だったかな、月蝕(つきはみ)の仮面かな。PS2って言ったけど月蝕の仮面Wiiですね。

月蝕の仮面の「顔が咲く」っていう表現がものっそい好き。ホラーと文学、哀の美しさが融合したゲームだよあれは。いや〜〜〜ストーリーも最高、EDの天野月子さんも最高。

刺青の聲(こえ)も実況で見ただけだな。EDの天野月子さんが本当に良い。

自分で持ってるのは紅い蝶。双子の霊にハイパー苦戦した。いまはどっかの戦闘で詰んでる。落ちる女にビビり散らしたのはいい思い出。

紅い蝶とサイレントヒル3早く終わらせたい…ゲーム技術が足りない…。


あとはなんだ?クロックタワーはやったことないんですよね。アリス イン ナイトメアは絶対にやりたいけどまだできてない。青鬼も怖くないからやってない。魔女の家とかも、フリーゲームはあんまりなんですよね。ドットってだけで怖くなくなっちゃう。没入感大事。

あ、流行り神は年齢制限で出来てなかったけどどうなんですかね?かまいたちの夜とかもちょっと気になる。ホラーというよりミステリー?

ノベルゲーはやったことない気がする。人が死ぬと怖くなくなるから難儀なものだ。



PSPがおじゃんになってからはVitaで『LIMBO』をプレイした。

横スクロールアクションというのか、ホラーというよりダークな死にゲー。考察するにあまりある内容がヨシ。


PCをゲットしてからは『LIMBO』と同じ開発会社の『INSIDE』を真っ先にプレイした。前作より歯応えがあって、クリーチャーも出てくる。やっぱり死にゲーだけど面白かった。考察の幅のあるストーリーってのはいいね。

それから深海の恐怖に気づき『SOMA』をプレイ。カメラ非固定FPS視点に慣れずに画面酔いしまくった。戦闘(?)の難易度に敗北したので、途中から敵が出てこないモードでやり直した。

結構長かったけど、びっくり要素も皆無でパズルも簡単だったので良かった。

ストーリーがそこらへんの映画より良いので是非オススメしたい。もちろん、「ホラー愛好家へ」のオススメだ。あとSF愛好家は手を叩いて喜ぶんじゃないでしょうか。

深海に沈んでいくときに、乗り物の電気が消えて真っ暗になったところが一番怖かった。漆黒の闇ってやっぱり怖いのね。


『Little Nightmare』は良かった。何が良かったかってそう、クリーチャーが良かった

これも死にゲーだけど、クリーチャーの造形が120点。大人のおとぎ話という感じ。しかもしっかりデザインに意味がある。

でもタイミングシビアなのだけは本当にキツかった。テーブルの上50回は駆け抜けたわ。

面白かったから残りの実績解除したいけど、あのタイミングゲーを周回したくない……。


『Layers of Fear』はTHE HOUSEに幻のゲームP.T.を足した感じ。

たぶん、今までで一番怖いゲームだった。

結構びっくりホラーなので嫌いな人は嫌いだと思うけど、雰囲気に呑まれるってああいうことを言うんだと思う。正直舐めてた。

戦闘も隠れることも何もない、ただの探索ゲーだ。しかも大したアイテムはなくて、そのキャプチャをクリアするためのアイテム以外はほぼすべて実績要素という。

いや〜…怖かったな…。グロいわけでも、しょっちゅう驚かせてくるわけでもないのに怖かった。

部屋に入って探索して、戻ろうと扉を開けた途端、別の部屋に飛ばされる、をずっと繰り返していく。どんどん新しい恐怖が用意される。四方に扉しかない部屋で、ちょっと視線をずらして振り返ったら暗い廊下が出現してたときの驚きたるや。上を見て、下を見たらもうその部屋はなかった。ずっとこれ。サクサクといえばサクサクプレイ。

私のオススメは3章だっけ?子どもがメインになる章の探索。次に何が起こるのか分からなくて、めちゃめちゃ進むのを躊躇った。怖すぎて胃痛もした。

子ども部屋のオルゴールの下りは、これだよこれこれ!!!!!ホラーゲームってこういうの!!!!!と恐怖由来の胃痛を抱えながらも大興奮した。

びっくりゲーに寛容で、美術に興味関心があって、多少の画面酔いが大丈夫なホラゲーマーにオススメ。私は画面酔いがひどくて途中で画面揺れ設定を変えた。

そういやSOMAも画面酔いがひどかったから途中で色ズレOFFにしたな。


そしてさっきまでやってた『OUTLAST』。

さっきって書いたけどもう2時間前なのね。早く寝るために早くやめたのに本末転倒もいいところだ。

というか。誰か教えてよ!これがびっくりゲーだってさァ!!!びっっっくりした!!!!!

攻撃できない隠れるだけのゲームです。みたいに書いてあったらSOMAシステムかな?って思うじゃん!

カメラの電池は減るし、怪物に捕まったら顔のドアップ映るし、主人公の息遣いがガチ。一人称視点だから臨場感マシマシで、怪物に慣れるまではずっとビビれそう。ただ、突然バーーーン!!ってくるのはやめてほしい。サイレントヒルもSOMAもLayers of Fearも敵が来るときは前兆があったのに…。でもかくれんぼゲーで前兆あったら意味ないか。一応主人公の息遣いがヒントになってるんだとは思うけどね。

言わずと知れた名作なだけあって、操作性は良い。緊張感を失わないし、作業要素も今のところないので臨場感がすごい。

これから少しずつ進めていきたい。


あと、Switchでもホラゲーやりたかったのでセールで『Hollow』を買ったけど、これは正直クソゲーかなあ。

まず操作性が悪い。あとバグで走れないのが罪。走れなくて操作性最悪なのに敵がガンガン突っ込んでくるからしんどい。クリーチャーデザインは好き。

FPS視点の割に画面酔いが少ないのは良い点。でもアイテムの場所分かりにくいし導線がなってない。バグが多い。セーブポイントに行かないと回収したメモが読み返せない。

90%OFFの理由が分かった。

でもクリアしたい……。



積んでるホラゲーは『赤マント』。やりたいゲームはたくさん。

あ〜〜〜、やらなきゃいけないこともたくさんあるけど私はホラゲーで優勝していくことにするわね。



ダークな2Dパズルアクション(死にゲー可)か、ゾンビ以外の良いホラゲー(多少のびっくりは平気)があったら教えてください。

私の貧弱PCでもできるようなやつを。できればsteamで。




赤マントの次はアリス イン ナイトメアかな。





架空感想文 最終回『僕は物語が嫌いだ』

 

 

『僕は物語が嫌いだ』(北大宮 愛莉 著)

 

 

10回、この企画を書いてきて分かったことは、私は人の喋り声をBGMに出来ないということだ。

耳は弱いが、それでも人の話には耳を傾けてしまう。

 

そういうことで、今もBGMは音楽を流している。

歌になると歌詞がまったく頭に入ってこなくなるから不思議だ。

 

喋りと歌、何が違うのかと考えたが、どうも「語り」になるとそっちに意識が向いてしまうらしい。

改めて、自分は誰かの「もの語り」を愛しているのだと実感した。

 

 

最後を飾る『僕は物語が嫌いだ』は、昨年卒業を発表したアイドル、北大宮 愛莉の自伝である。

自身のアイドル哲学やステージへの情熱など、13年に渡るアイドル人生を赤裸々に描いたことで話題となった。

 

オーデションの苛烈さに心が折れそうになった夜、初舞台で湧き上がる胸いっぱいの喜び、事務所とのすれ違い、涙を飲み込んだ卒業ライブ。

この本を読んだとき、一人の少女の覚悟にきっと心を震わせることだろう。

 

 

「当たり前」を意識するのは難しい。そうであるのが当然だからだ。

人は意識して呼吸をしないし、意識して瞬きしない。それと同じように、何が「物語」かなんて意識しない。少なくとも私は意識しない。

 

そもそも、「物語」を明確に定義することができない。

 

竹取物語』は物語である。『ロミオとジュリエット』も物語である。ポケモンも物語であろう。友人の話もたぶん物語である。昨日の夢だってきっと物語だ。

ストーリーさえあれば立派な物語として成立する。

 

 

「文学は作者の手を離れた(世間に公開された)瞬間に、共有の創作物になる」とは教授の談だ。いや、ちょっと違ったかもしれないがニュアンスは大体こうだ。

私はこれを聞いて、半分閉じかけていた眼からぽろぽろと鱗を零したものだ。

 

よく国語の問題である「作者の気持ちを述べなさい」に、高校生の私は「知ったこっちゃね~~~!!」と思っていた。

しかし、教授曰く、読者の解釈も文学の一部なのだという。

そう思うと、設問者の解釈もその文学の一翼を担っており、私は創作の創作を読み解いていたということか。やっぱりわけわからんな。

 

まぁ要するに、解釈も物語になりうる、ということだ。

 

さあ、いよいよ混乱してきたぞ。

 

 

さらに別の話を加えるのであれば、ベクトルもひとつの「物語」である。

どこかへ向かう運動そのものが「物語」だ。

 

恋愛話も、分解してしまうと誰が誰に矢印を向けているかという話になる。つまりベクトルだ。

成長譚だって矢印が上に向いている話だ。つまりベクトルだ。

死へ向かう人の生さえも、ベクトルである。

 

精神的であれ物理的であれ、ある方向にむかっていれば全て物語になろう。

 

『僕は物語が嫌いだ』で例えると、愛莉のアイドルへの情熱、ファンの愛莉への愛情、果てにはアイドルそのものがすべてベクトルだ。

 

本書の面白いところは、物語が物語を否定しているところである。

 

 

北大宮 愛莉は物語の何が嫌いだったのか。

 

彼女の答えははっきり文中に示されている。

「みんなが思い描く”愛莉”に収まりたくなかった」と。

 

 

人生が物語であるのは前述の通りだ。私たちが誰かと向かい合っているとき、それは物語と向き合っていることになる。(さらに、向き合うことで矢印が発生しているので、そこにも物語が生まれる)

アイドル、偶像などは強烈な物語になる。

 

しかし愛莉は、アイドルという、陳腐な表現をすれば「敷かれたレール」を走ることを拒否した。

彼女の中で、求められるアイドル像は、まるでストーリーありきの「物語」であった。

「もの語る」立場でありながら、物語の創造を否定したのだ。

 

私は彼女の現役時代を知らないが、「もの語り」を否定し、己の哲学だけを信じる彼女はさぞかし美しかっただろう。

どんなときも「北大宮 愛莉」という唯一の存在を信仰し、望まれる形には収まらないその姿勢、物語は自分の後ろにのみできればいいというその思想が美しい。

 

彼女の強さに敬意を表すると共に、今後の動向に注目したいと思う。

 

 

この本を読み終わったあと、考えることには。

 

私は物語が好きだ。

誰かの思想の中を泳ぐのが好きだ。複雑な関係を眺めるのが好きだ。脳みそを撹拌して物語を蒸留するのが好きだ。

 

わざわざこの一連の記事を読むあなたもそうでしょう?

 

 

どんな人間も物語から完全に分離されることはできない。

 

友情のためにひたすら走って、愛のために目を潰し、百年後に百合の花に生まれ変わったとしても。

 

 

どんな人生も、物語としての価値をもって”しまって”いる。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

 

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最後に相応しいお題でした。

10回で終わりにするつもりだってどこかで言った??と思うくらいぴったりだった。

 

ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!

皆様の溢れるセンスに非常に楽しませてもらいました。

また何かやるときはぜひ遊んでください!!

 

 

 

 

架空感想文 9冊目『101本のモナリザアネモネ』

 

 

『101本のモナリザアネモネ』(トム・オーカー 著)

 

 

人生で一番最初にひとりで読んだ本は、遠山 繁年が絵を描いた絵本『蜘蛛の糸』であった。

グロテスクな地獄と美しい極楽の対比が印象的だ。

これの影響でしばらくの間、蓮は極楽に咲く想像上の花だと思っていた。

 

「泰衡の首の蓮」の記事を目にしたのは数年ほど前だっただろうか。

なんでも、中尊寺金色堂に収められた藤原 泰衡の首桶に蓮の種子が入っており、それが平成10年に800年振りに開花したらしい。

写真の花は非常に奇麗だった。

 

しかしこうなってくると、蓮の薄紅は血を吸った色だよ、なんて言われても信じてしまいそうになる。

蓮の葉の下には……。

 

 

『101本のモナリザアネモネ』は近未来の美術館を舞台にした小説だ。

 

品種改良により土の代わりに絵画を養分する花が流行した世界。養分とする絵画によって、花は咲く色や形を変えるようになった。

養分用の絵画が販売されるようになり、歴史的名画の養分化は法律で厳しく規制されることになった。

かの有名な「モナリザ」も、当然のように養分用途は禁止されていたが、ある日何者かによって盗まれ忽然と姿を消してしまった。

キュレーターのシロは、ふとしたきっかけで、そのモナリザを養分にしたというアネモネを手にしてしまう。

 

 

アネモネの品種名はつくづくお洒落だなあと思う。

モナ・リザアネモネの品種の名前だ。他にもセント・ブリジッドやデ・カーンなどなかなか高貴な名を冠している。お洒落だ。

 

しかし『101本のモナリザアネモネ』の「モナリザ」は、品種名ではなく本物の「モナリザ」だ。

 

トム・オーカーの圧倒的な描写力で、絵画に根を張る花の奇怪な毒々しさや、花に狂う人々の不気味さを読み手の眼前にありありと突きつけてくる。

ただ甘いだけではなく、スパイスも効いていて、偏食家の人にも満足いただける小説だろう。

 

101本のバラの花束の意味は最上の愛だが、101本のアネモネは何を指しているのか。

ミステリーともSFとも分類できない、新しい読書体験をこの本は与えてくれるだろう。

 

 

「美しいものには毒がある」だったか。

かねてより、花が死やグロテスクなイメージを背負いがちなのは何故かと思っていたが、そういうことなのだろう。

大河ドラマ麒麟がくる』でも、血を紅葉か何かで表現していた気がする。

 

死は悲惨である。そして悲惨であればあるほど美しさが際立つのかもしれない。

 

そう考えると、美しさは相対的なものであるといえよう。

絶対的な美しさがあるのなら、それは単体でも人々を魅了してやまないだろうと思う。

景観などはまた別だとは思うが。

 

しかしどうだろう。

椿は人の首に例えられるし、「モナリザ」はその絵画に込められた謎やらミステリーやらが芸術品としての価値を高めている。

背景に暗さがあればあるほど、人は魅了されるのだ。

 

 

絵画の闇、いわくつきの宝石、人を狂わせる音楽、死を想起させる花。

 

美や芸術は人間の欲を映し出す鏡なのかもしれない。

 

 

101本の欲の鏡は蜘蛛の糸だ。

決して美しいだけでは済まされない。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

 

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口に出して言いたいことば「モナリザアネモネ

架空感想文はじめてから花にどんどん詳しくなる。

 

 

 

次回予告 最終回『僕は物語が嫌いだ』

 

 

 

 

 

架空感想文 8冊目『ランゲルハンス島に行ってみた』

 

 

『ランゲルハンス島に行ってみた』(たまごプープ 著)

 

 

人間関係を計る基準として、「沈黙に耐えられるかどうか」は広く知られた判断材料である。

 

私自身は沈黙が苦手なので、沈黙に耐えられるようになれば仲の良い友人になったと、勝手に思っている。

どれくらい沈黙が苦手かというと、独りでいるときも音のない空間に耐えられずに何かBGMをかけてしまうくらいだ。(環境音は無音扱い)

 

ただ、「音のない音」は好きであるからこの話は困難を極める。

 

「音のない音」とは所謂オノマトペで、雪の「しんしん」降る音、「シーン」とした夜のことだ。

あのなんとも言えない自然の音が良い。

 

 

『ランゲルハンス島に行ってみた』はたまごプープさんの病気エッセイである。

自身の過去に罹患した病気を、虫歯・気管支炎・盲腸・肝炎・糖尿病など、小さなものから大きなものまで臓器ごとにコメディチックに描いている。

 

表題の「ランゲルハンス島に行ってみた」は膵臓の章のタイトルである。

 

ランゲルハンス島とはハワイのような海に浮かぶ島のことではなく、膵臓を構成する組織のことである。

このランゲルハンス島の中の細胞が、有名なインスリンを分泌している。

 

筆者は糖尿病だと診断されてから、膵臓の仕組みを学び、生活習慣の改善までをこの章で綴っている。

だが、暗くなるのではなく、夫の買ってきたたらこを見て「膵臓はほぼたらこだわ」と気付いたり、ランゲルハンス島の話を聞いた娘が海外旅行に行くのかと勘違いしたりと、明るく少しずつ前進している。

 

 

私のお気に入りは肝臓の章だ。

 

肝臓は「沈黙の臓器」と言われている。病気が重症化するまで自覚症状が出ないのが所以だ。

 

肝臓の章はベトナム旅行から帰ってきたところから始まる。

腹部の違和感と全身の倦怠感を覚えた筆者は、旅行の疲れが出たのだと思い一日寝込むことにした。

目が覚めると、状況がちっとも改善していないのに加えて身体に黄疸が出ていることに気付いた。

咄嗟に肝硬変だと思った筆者は(父が肝硬変を患っていた)、夫に肝臓病で症状が出たので長生きできないかもしれないと告げる。

 

翌日病院に行ってみると、肝硬変ではなくA型肝炎だと診断され、ひと安心した筆者は帰宅後リビングでうたた寝をしてしまう。

騒がしい音で目を覚ましてみると、妻が死んでいると勘違いした夫がパニックを起こしてべそをかきながら救急車を呼んでいた。

そんな話だ。

 

状況的にはまったく笑い事ではないのだが、近くの悲劇も遠くから見れば喜劇なのだ。

ぽかんと口を開ける筆者と、ほとんど泣きながら電話をかける夫の対照が面白い。

 

 

沈黙は時にドラマを生む。

 

友情の深まり、外に降り積もる雪、ちょっとした勘違い。

感情のスパイスだ。

 

だが、沈黙は重いものだ。

 

無音で中耳炎になりそうなときは、そっとイヤホンで好きな音楽を流すと良い。

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

 

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お題のセンスに手を叩いて喜んでしまった。

ランゲルハンス島とかゴルジ体とかマイスネル小体とかね。みんな好きよね。私も好き。

 

前説が終わったところで、沈黙の臓器が膵臓ではなく肝臓だと気付いて急遽ルート変更を図った。

 

 

 

次回予告 9冊目『101本のモナリザアネモネ

 

 

 

 

架空感想文 7冊目『人生は畢竟死への道標』

 

 

『人生は畢竟死への道標』(嶽岡 夜途 著)

 

 

 後悔の少ない私の人生でも、後悔がないわけではない。

 

最も大きな後悔は、高校生になるまで詩を軽視していたことだ。

 

授業で習う詩は、修辞法と作者と読解ポイントだけ理解しておけばテスト勉強の必要性は皆無だ。いわゆる得点源。なんて薄っぺらいんだろうと思っていた。

和歌のようなパズルのような技巧があるわけでもないし、誰かの世界観を覗き見るのは気恥ずかしさもあった。

 

何かきっかけがあったわけではないと思うが、今ではちゃんと詩の良さが解る。

それだけで、また少し良い人生になったと思うのだ。

 

 

『人生は畢竟死への道標』は詩人 嶽岡 夜途の遺稿を集めた詩集である。

 

タイトルを分かりやすく言い換えると「人生は詰まるところ、死に向かうものだ」という意味と理解できる。

死期を前にした夜途の死生観が強く表れたタイトルだといえよう。

 

夜途の詩は、暗く厭世的で、しかし人類への希望を捨てない強さがある。

そしてその中で、人生の意味を読み手に問いかけてくる。

 

 

私の人生デザインのテーマは「マルチ人間」である。

 

小学生のときに塾のテキストで、「哲学者と間違えて会食に呼ばれたミュージシャン」の話を読んだ。会食の主人もミュージシャンも互いに手違いに気付いたが、ミュージシャンは主人の顔に泥を塗らないよう最後まで哲学の話をし通した、というものだ。

小学生の私は、このミュージシャンのような人間になりたいと心底思ったのである。

 

文学・芸術・哲学・政治・音楽、あらゆる分野をつまみ食いしながら生きているが、まだマルチ人間にはほど遠い。

ただ、人生の方向性が決まっているだけで、格段に生きやすくなっているのかもしれない。

 

 

人生の構造を言葉で表すのは困難を極める。

だが、あえて言葉にするのであれば、人生は「軸となるもの・方向性・他人」で成り立っていると思う。

 

巷では「人生の意味」なんていう曖昧で無責任な言葉が蔓延っているが、そもそも「意味」の意味が不明瞭ではないだろうか。

 

「人生の意味を噛み締めながら生きてないから、そんな適当な人生になるんだ」

こんな説教を聞いたとして、この発言者は人生の意味を何だと捉えているのだろう。

 

適当の対義語を「厳格」と置く。

すると、「人生の意味」を噛み締めた結果、厳格な人生になるらしい。

厳格というと、時間に正確だとか、法を厳密に守るだとか、効率的に金を稼ぐだとか、そういうことだろうか。

ということは、この人の言う「人生の意味」とは「数値や社会規範に従順であること」になろう。

 

いや、少し悪い言い方をした。

「数値や社会規範に重きを置く」にしておこう。

 

これは屁理屈である。

そういう意図ではないのは重々承知している。

しかし、じゃあどういう意図ですか?と訊かれたとき、これ以上明確な答えを用意できるだろうか。

 

誰かにアドバイスしたいなら、出来る限り明確に原因と解決策を示すことを推奨する。

 

 

そういうわけで、私は人生の意味なんてものは信じていない。

ただ、構造として「軸となるもの・方向性・他人」の成分があるんじゃないかな、と思っている。

 

私の場合の人生三拍子は「文章・マルチ・友人」だ。

すべてちゃんと揃っているので人生で迷ったことはない。

しかし、おそらくこれは少数派の人類であろうことも理解している。

 

そして、人生三拍子は揃っている必要はないとも思う。

タイミングや運、才能、環境の影響は免れないと思うので。

もし人生に迷いや行き詰まりを感じていたら、上記の影響を考えてみるもの良いかもしれない。

 

また、迷っている間が人生の華だとも思う。

 

人生三拍子それぞれの路の先が見えていないということは、可能性があるということに等しい。

 

 

人生三拍子の路の先がはっきり見えたとき、すべての路は死へと続いていく。

 

 

 

 

※書名・著者名・内容のほとんどが妄想です。

 

 

 

 

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今回はお題というよりかは依頼のような気持ちで書きました。

答えになったかな。

 

嶽岡 夜途は たけおか よみち と読みます。

ちなみにいつかの岸 恒太郎は きし つねたろう と読みます。

 

 

 

次回予告 8冊目『ランゲルハンス島に行ってみた』

 

 

 

 

 

架空感想文 6冊目『明日の天気を教えてください』

 

 

『明日の天気を教えてください』(前島 さとる 著)

 

 

いま何時ですか?

 

そう訊かれたとき、あなたは時刻をどうやって確認するだろうか。

おそらく、ほとんどの人が携帯やPCの時計・腕時計・部屋の時計のいずれかで確認するだろう。

 

しかし、実はそれ以外にも時刻を確認する方法があって、それが時報だ。

実際に117の番号に電話をかけてみると、音声で現在の時刻を教えてくれた。

 

誰もが知る110や119もこの3桁電話番号サービスのひとつで、他にも177で天気予報を聞くことができるなど、バリエーションに富んでいる。

 

 

前島 さとるは数年前に某掲示板の怪談スレをまとめた本を出したことで、知る人ぞ知る実話系ホラー作家としてSNSで注目を集めている。

 

実話系というと想像がつきにくいと思うが、要するに都市伝説のことだ。

 

『明日の天気を教えてください』は、時報の都市伝説を描いたホラー小説である。

 

 

高校生のカナコのクラスでは時報が流行していた。なんてことはない、よくある物珍しさによる一瞬の流行だ。

 

ある日、カナコは妙な噂を耳にする。

「夕方5時の鐘と同時に天気予報の番号にかけて「明日の天気を教えてください」と言うと、おかしな返事がかえってくる」というものだ。

 

カナコと友だちは、興味本位で噂を試してみることにするのだった。

 

 

都市伝説は「手頃」という意味で、非常に身近なホラーである。

 

以前書いたことがあるかもしれないが、私は想像が最も怖いと思っている。

暗闇を歩いているとき、あそこに誰か立っているかもしれない、何かに足を掴まれるかもしれない、そんな想像が恐怖心を煽り立てるのだ。

あの背筋がゾワッとする感じがまさに「恐怖」で良い。

 

都市伝説における「手頃さ」とは、噂の実証しやすさである。

そして都市伝説の恐ろしさは結果がわからないところにある。

結果を想像するしかないのは、恐怖に他ならないだろう。

 

誰もが踏み込める世界だが、帰れるかはわからない。

 

 

前島 さとるは掲示板出身のため、読みやすいシンプルな語り口が特徴である。

 

黄昏と共に怪異が侵食してくる描写を、淡々と書き連ねていくことで「実体験」らしさを存分に演出している。

ともすれば見逃してしまいそうな幽かな違和感、日常の小さな歪みの中に、深い恐怖が宿っているのだ。

 

電話という身近なアイテムに怪異を忍ばせ、あちらとこちらを強制的に接続してくる。都市伝説にはそんな力がある。

 

この作品は、最後まで誰も死なない・誰も消えないのに何故かいつまでも厭な感じが纏わり付いてくる。

ずっと日常は続くのに、少しずつ軋んで、知らない顔が、増えていく。

 

 

明日の天気は晴れだと言っていたのに。

傘の向こうに知らない脚が見える。

あそこの屋上では毎日同じ人が身を投げている。

隣の友だちの話す言語が分からない。

鏡に映る自分が正面を向いていない。

 

少しずつ狂っていく常識に、じんわり恐怖が広がっていく。

 

 

 

 

※書名・著者名・内容すべて妄想です

 

 

 

 

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ネタか本気か分からなかったけどお題箱に入っていたので書きました。

 

見た瞬間にこれはホラーだ!と私ニッコリ。

 

 

 

次回予告 7冊目『人生は畢竟死への道標』