架空感想文 7冊目『人生は畢竟死への道標』
『人生は畢竟死への道標』(嶽岡 夜途 著)
後悔の少ない私の人生でも、後悔がないわけではない。
最も大きな後悔は、高校生になるまで詩を軽視していたことだ。
授業で習う詩は、修辞法と作者と読解ポイントだけ理解しておけばテスト勉強の必要性は皆無だ。いわゆる得点源。なんて薄っぺらいんだろうと思っていた。
和歌のようなパズルのような技巧があるわけでもないし、誰かの世界観を覗き見るのは気恥ずかしさもあった。
何かきっかけがあったわけではないと思うが、今ではちゃんと詩の良さが解る。
それだけで、また少し良い人生になったと思うのだ。
『人生は畢竟死への道標』は詩人 嶽岡 夜途の遺稿を集めた詩集である。
タイトルを分かりやすく言い換えると「人生は詰まるところ、死に向かうものだ」という意味と理解できる。
死期を前にした夜途の死生観が強く表れたタイトルだといえよう。
夜途の詩は、暗く厭世的で、しかし人類への希望を捨てない強さがある。
そしてその中で、人生の意味を読み手に問いかけてくる。
私の人生デザインのテーマは「マルチ人間」である。
小学生のときに塾のテキストで、「哲学者と間違えて会食に呼ばれたミュージシャン」の話を読んだ。会食の主人もミュージシャンも互いに手違いに気付いたが、ミュージシャンは主人の顔に泥を塗らないよう最後まで哲学の話をし通した、というものだ。
小学生の私は、このミュージシャンのような人間になりたいと心底思ったのである。
文学・芸術・哲学・政治・音楽、あらゆる分野をつまみ食いしながら生きているが、まだマルチ人間にはほど遠い。
ただ、人生の方向性が決まっているだけで、格段に生きやすくなっているのかもしれない。
人生の構造を言葉で表すのは困難を極める。
だが、あえて言葉にするのであれば、人生は「軸となるもの・方向性・他人」で成り立っていると思う。
巷では「人生の意味」なんていう曖昧で無責任な言葉が蔓延っているが、そもそも「意味」の意味が不明瞭ではないだろうか。
「人生の意味を噛み締めながら生きてないから、そんな適当な人生になるんだ」
こんな説教を聞いたとして、この発言者は人生の意味を何だと捉えているのだろう。
適当の対義語を「厳格」と置く。
すると、「人生の意味」を噛み締めた結果、厳格な人生になるらしい。
厳格というと、時間に正確だとか、法を厳密に守るだとか、効率的に金を稼ぐだとか、そういうことだろうか。
ということは、この人の言う「人生の意味」とは「数値や社会規範に従順であること」になろう。
いや、少し悪い言い方をした。
「数値や社会規範に重きを置く」にしておこう。
これは屁理屈である。
そういう意図ではないのは重々承知している。
しかし、じゃあどういう意図ですか?と訊かれたとき、これ以上明確な答えを用意できるだろうか。
誰かにアドバイスしたいなら、出来る限り明確に原因と解決策を示すことを推奨する。
そういうわけで、私は人生の意味なんてものは信じていない。
ただ、構造として「軸となるもの・方向性・他人」の成分があるんじゃないかな、と思っている。
私の場合の人生三拍子は「文章・マルチ・友人」だ。
すべてちゃんと揃っているので人生で迷ったことはない。
しかし、おそらくこれは少数派の人類であろうことも理解している。
そして、人生三拍子は揃っている必要はないとも思う。
タイミングや運、才能、環境の影響は免れないと思うので。
もし人生に迷いや行き詰まりを感じていたら、上記の影響を考えてみるもの良いかもしれない。
また、迷っている間が人生の華だとも思う。
人生三拍子それぞれの路の先が見えていないということは、可能性があるということに等しい。
人生三拍子の路の先がはっきり見えたとき、すべての路は死へと続いていく。
※書名・著者名・内容のほとんどが妄想です。
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今回はお題というよりかは依頼のような気持ちで書きました。
答えになったかな。
嶽岡 夜途は たけおか よみち と読みます。
ちなみにいつかの岸 恒太郎は きし つねたろう と読みます。
次回予告 8冊目『ランゲルハンス島に行ってみた』