出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

架空感想文 2冊目『マリちゃんはプリンを食べない』

 

 

『マリちゃんはプリンを食べない』(内田 麻里子 著)

 

小学校の同級生に、少し不思議な変わった子がいた。

あまり関わりはなかったが、野草観察の時間にタンポポの束を私のところに持ってきて、「春って、広がれば広がるほどやわらかいんだね」とそのタンポポを私にくれたことは、今でも鮮烈に記憶に焼き付いている。

彼女はいま何をしているのだろう。

綿毛が飛ぶと彼女のことを思い出す。

 

 

今日は今年の本屋大賞候補にもなった『マリちゃんはプリンを食べない』について書いていこうと思う。

 

大人しくて勉強もできる優しいマリちゃんは、ちょっと「変わっている」。

いつも遠くを見つめているような眼をして、図書館によく籠もっているマリちゃん。どんな時でも自分の意見を持っていて、男の子にも負けないマリちゃん。あまり何を考えているか解らないマリちゃん。

そんなマリちゃんがある日、給食のプリンを見て突然泣き出した。

クラスのみんなは涙の真相を突き止めるため、それぞれ調査に乗り出した――。

 

本書は「あゆみ先生」・「ゆみちゃん」・「颯太郎」・「マミ」・「マリちゃん」の5章で構成される。

担任の先生、女友達、クラスメイト、妹と立場の違う視点から描くことによって、マリちゃんの人物像を浮き彫りにし、最終章で答え合わせを行う見事な構成は、やはり流石の内田麻里子と言えよう。ミステリー以外でもその才能を遺憾なく発揮している。

 

 

個性の保護と人格の尊重はイコールではない。

個性は客観的に把握できる人間の部分であり、人格は人間に内包された意思のベクトルである。

個性を「伸ばす」・人格を「疑う」とあるように、我々は個性をより物質的に、人格を精神的に把握しているのは明白だ。

 

しかし、現代の学校の人格教育は「個性を伸ばす」方向で行われている。

 

内面の果実をつけるために外面の畑を耕している矛盾を、知ってか知らずか教育者は押し続けているのだ。

『マリちゃんはプリンを食べない』はその問題点を鋭く暴き出した。

 

 

マリちゃんは変わった子だった。「視点が独特」という個性をもっていた。

マリちゃんは繊細な子だった。少しの罪悪感も許せない性格だった。

 

あゆみ先生の章で、「あの子は変わってるから……」とSOSのサインを見落としてしまった後悔が綴られている。

独特な視線を否定しまいとするあまりに、心の揺れを察知することができなかった。それは、個性信仰の弊害と言える。

 

思うに、人と接するには2つの見方が必要で、ひとつは(A)「この人はこんな傾向がある」と受け入れる視点、もうひとつは(B)「それはそれとして、何故この人はこんな言動をするのか」と探る視点である。

 

例えば、怒りっぽい人が怒っているとき、(A)この人はよく怒る (B)今回は何が原因で怒っているのか を考えて初めて、相手とのコミュニケーションが開始される。

しかし個性信仰で凝り固まっていると、(B)のフェーズを見逃してしまう。

 

 

そういう点では、子どもはなんとも単純だ。

「個性」などという不可視な物質を意識せずにいられるのだから。

 

ゆみちゃん・颯太郎・マミはそれぞれの距離感でマリちゃんを観察している。

内田麻里子の上手いところは、マミの章を入れることで、家庭での姿=素顔を答え合わせの前に示したことだろう。

 

学校と家庭での違いは、「個性」の有無にある。

 

「個性」というフィルターをかけられたマリちゃんは本当にマリちゃんなのか?

それを問うのがこの章だ。

 

そして、「本当の自分」の限定性を我々に突きつけてくる。

 

 

タンポポの彼女は、私にとって衝撃そのものだった。

 

何が衝撃だったのか?

大して仲良くもない私にいきなり話しかけてきたことでも、言っていることが意味不明だったことでもない。

 

不意に、彼女の内面の銀河に触れたような気がして、その感触に驚いたのだ。

 

 

 

※書名・作者名・内容すべて妄想です。

 

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早速お題箱で遊んでくれた方、ありがとうございます。

 

「人名+○○ない」構文はタイトルとして非常に優秀なんですよね。

見た人に内容を想像させるタイトルで。

 

 

次回予告 3冊目『ネモフィラの咲く頃』