出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

正義の肩幅


先週、いつも世話を焼いてくれる友人とそのまた友人たちでWSS(ウエスト・サイド・ストーリー)を観に行った。チケットがあるからどう?と誘われたのだ。

友人の連れたちとは初対面だったが、一言目から様子がおかしくて好感度は爆上げだった。


会場は豊洲あたりにあるIHIステージアラウンド東京。360°回転する舞台が特徴だ。

座席の位置に対して舞台の位置が低く、左斜め45°の視界が完全に前の人で遮られたのは残念だった。まぁそういうこともある。


開演直前だったこともあろうが、ロビーの人の多さには驚いた。

昨今の劇場は2.5次元舞台や声優の起用など、若年層の取り入れに精を出している印象だったが、どうも功を奏しているようだ。良かった。


WSSはブロードウェイ・ミュージカルの不朽の名作としてその名を馳せている。

個人的なイメージとして『雨に唄えば』や『天使にラブソングを』のような穏やかでスッキリした話だと思っていたので、まぁ予習はいいでしょ〜と今回も頭からっぽで行った。あとで友人にあほ!と怒られた。

何故怒られたのかはすぐに分かることになる。


前知識はこれぐらいでいいだろうか?

OK。ここから舞台に入っていこう。



舞台の開演には色々なパターンがあり、宝塚は主演男役による開演アナウンス、帝劇は割といきなり音楽がかかることが多く、劇団四季はどうだったかな〜結構親切設計だった気がする。まぁそんな感じに始まる。

WSSはというと、まず初期状態で円形画面が180°見えるように設置されている。ディズニーの乗り物のように客席が回る?ことで、裏側の180°も見えるようになる。

この180°の画面を使い、金管楽器の音に乗せてオープニングムービーが流れた。すごい。

カウボーイビバップみたいな、ハードボイルド!クールに決めるぜ!赤と黒!って感じだった。


おや?と私は思い始める。

スーパーマン的なノリなのかな?


画面が退いて、舞台が現れる。

そこにいたのは益荒男数人。街のチンピラだ。激しいダンスで喧嘩を表しているのだが、なんといっても肩幅がすごい。

普段女性ばかり見ているせいもあるのだが、それにしても、もう肩幅がすっごい。

肩幅が踊っている。


え、というか何?こんなに荒んでる感じ?貧しい人たちが下品な表現を使う話は悲劇だってレミゼで習ったのですが??


なんとか集めた情報によると、時は1920〜1950年あたりのアメリカ。移民の青年たちvs現地の青年たちが日々縄張り争いでやりあっていて、移民側の少女と現地側の青年が恋におちる、と。


1920〜30年代禁酒法……でもバーがあるから違うな……ベルナルドってことはイタリア系移民……マフィアか?ギャングもの……いや違うな……プエルトリコってどこだっけ、これ何語だ!?スペイン???アメリカンドリームだから戦後か!?

かなり偏った知識をフル動員して、なんとか世界観に追いつこうと頑張った。

こりゃ予習必要だったな!と反省。


というか、


情報を整理していくうちに私は気付く。


見覚えのある構図だな……?



WSSの必聴ナンバーであろう『Tonight』。

バルコニーの上のマリアと下にいるトニーが歌う愛の歌だ。

夜のニューヨークに降り注ぐ星のごとく、さやかで伸びやかな歌だった。


前回の感想文を読んでくれた人ならもう察しはついているだろうと思う。


これは、そう、ロミオとジュリエットである。



私は喉の奥で唸った。

出たなシェイクスピア……!!!


数日前に会ったばかりじゃないの。行くところ行くところで出現しやがって!

私が言えることはひとつ。

物語の型はシェイクスピアがやり尽くしている、とは言い得て妙である、ということ。


もうWSSのあらすじは語るまでもない。

ロミオとジュリエットほとんどそのまんまだ。

では、私は何を語ろう。



そうだ、肩幅だ。


特にトニーの肩幅がやばい。

肩に風船詰めてますか?と思うくらい厚い。

そんな肩幅で喧嘩はやめようなど説得力0だ。ぶつかるだけで100mは吹っ飛ぶだろう。

ただやはり他の男性陣の肩幅もやばい。

トニーの肩幅が人を100m吹っ飛ばすとしたら、他は80吹っ飛びくらいはあるだろう。ここが肩幅爆心地である。ヤムチャならワンパンでノックアウトだ。


例の古典の型に則り、肩幅戦闘力100は戦闘力80を倒してしまう。当然だ。悟空がヤムチャに負けるわけがない。

しかし、いくら戦闘力があっても運命には逆らえないもので、戦闘力100はピストルの前に呆気なく散っていった。



ところで。

WSSにおいて、ヤムチャの死は物語を進める道具として使われたが、悟空の死は悲劇の最高潮に昇華された。

何が明暗を分けたのか。

それは戦闘力。言わば「肩幅力」である。


肩幅がある者こそが主人公、その存在感を示せるのである。


慈悲ない薄情な世界だ。私もそう思う。

だがこれが現実なのだ。

肩幅の厚さが正義、自らの存在は自ら定義せよ、と。鳥山明がわらう姿が目に浮かぶ。

幻覚。



己が存在とは何か、幸せとはどこにあるのか。

人類史上不変の問いを、この物語も投げかけてくる。


答えを得たい人は探してみるのもいいかもしれない。



7つのドラゴンボールを。






鳥山明大先生すみませんでした。