出力装置鮭

観たもの読んだものの感想しかない

非実在優等生の彼


この文章は2019年12月24日に書き始めたものです。

※映画『死霊館』と少し『パンズ・ラビリンス』のネタバレを含みます。



世の中はクリスマス・イヴですね。
「イブ」より「イヴ」の方がかっこいいので私は誰がなんと言おうと「イヴ」と書きます!!Wikipediaさんも「イヴ」表記だったし!
こんなことを確認するために12月24日にGoogleで「クリスマスイブ」と検索する人間になってしまったじゃないか。
クリスマス知らない世界から来たのか???

一行目から逆走してしまった。
マリオカートのジュゲムも驚く逆走速度だ。
そしてまだ本題でもないのにGoogle検索を2回も使用したことを告白します。

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この数分の検索履歴。

あの逆走したときに出る亀、ジュゲムっていうのね。初めて知った。

ちなみにこの下は「家 人 一体化」「31番 英語」と続いている。



さて、本当になんの話だか見失ってしまうので早いとこ進めることにする。


4限が休講だったので空きコマで映画を観ることにした。図書館の3階、いつも座る1人用の机が待ってましたとばかりに空いていた。Netflixのマイリストでちょうど良い時間のものをいくつかピックアップして、ルーレットにかける。

止まった画面を覗き込む。


死霊館


うーん、この感じ!

私はいいと思う。観たかったし、悪魔が出てくるならキリスト教に関係するし実質クリスマスムービーでしょ!


というわけで、今回は最近のホラー映画の名作『死霊館』の感想文をお送りします。

怖いのが苦手な人は気をつけてね。



以前から話題になっていたので、私も気にはなっていた。しかし機会がなくて観ないままになっていたところ、先日からNetflixで配信され始めたので意気揚々とマイリストにインしておいた。


結論から申し上げると、「堅実で真面目で誠実なホラー映画」である。


口当たりさっぱり、えぐみも少なく、スルスルと呑み込める。大衆受けでいったら抜群だろうと思う。

びっくりではなくしっかりホラーで勝負し、画面作りでリアリティと臨場感に力を入れ、安易にバッドエンドにせずハッピーエンドでも怖く出来るぞ、と主張してくる。

努力型の優等生である。

顔は普通だが、成績はいつも上位で、地頭の良さに甘えず試行錯誤と改善を繰り返す力がある。運動も平均かそれ以上にでき、嫌味がなく人当たりも良い。推薦されて委員長になり、朝礼の挨拶でありとあらゆる後輩女子の初恋を奪っていくタイプ。

死霊館』はそんなやつだ。


この映画はひとことで言うと、悪魔祓いものである。悪魔祓いというと、かの超超超名作『エクソシスト』みたいな映画かな?と思われるかもしれないが、そうでもない。

どちらかというと『パラノーマル・アクティビティ』に近い気もする。


実話を基にしており、いかにリアル感を出せるかを追求した作品だと感じた。温感カメラが出てきたあたりでTVの企画かな?と思ったレベルである。

実話系はそれだけでホラーのいちジャンルとなっているが(都市伝説などもこれに近い)、本当にあったんだよ怖いでしょ?ではなく、いかに演出で恐怖を植え付けるか に注力しており、映画としてのプライドを感じる。


例えば、ホラー映画の鉄板「何かの気配を感じて振り向いたけど何もいなかったのでほっとして向き直ったら何かいた!」に使われる画面は、人間を背後から映した「振り向き」の絵と、同じ人間を前から映した「向き直り」の絵、「向き直った主人公の視線の先」の絵の3カットが普通である。

これにはハッピーエンドをぶち壊す効果がある。


どこかで読んだことがあるのだが、劇場版『呪怨』の何が画期的だったかというと、今まで安全地帯だった明るい部屋や布団の中にまで霊が侵食し、どこに行っても逃げられない恐怖を生み出したことだ、という。

確かに、あのTVのシーンは絶望感がすごかった。何を食べたらあんな発想が浮かぶのだろう。知りたい。


この、安全地帯に辿り着く=ハッピーエンドという図式が崩れたことにより新たに生まれた「上げて落とされる」恐怖は、ホラーの新時代を拓いたのだ。そして、その結果が鉄板3カットの濫用というわけである。

確かに鉄板ならハズしはしないが、安易なジャンク恐怖と紙一重にもなる。簡単に言えば、もはや食傷気味である。


しかし、優等生の演出はひと味違う。

映画の要素に「手叩き鬼」とでもいうのか、鬼が目隠しをして手を叩く音を頼りに人を探す隠れんぼのようなゲームがある。この使い方が非常に上手い。いや、美味い。

目隠しをした鬼は当然、周囲に何があるか分からない。画面は音を辿って彷徨う鬼を後ろからひたすら追い続ける。この1カット長回し(推測)もあまりにもよく出来ている。

私たち傍観者は明らかに不穏な場所に誘導されていることに気付くのだが、目隠しをした鬼は気付かない。どんなにおかしなことが、恐ろしいことがあっても鬼だけは気付かない。クローゼットがひとりでに開いても、そこから出てくるはずのない人の手が出てきても、そいつがあまつさえ手を叩いても、おかしなことだと思わない。鬼は「見つけたわ!そこにいるのね!」なんて言って、なんの躊躇いもなくクローゼットに手をかけてしまう。

どう考えてもおかしい、だがそれに気付かない。そのとき、傍観者だけがその状況に恐怖することができるのだ。



私は昔、意味がわかると怖い話にどハマりしていた。端から端まで読み尽くしたあとは洒落怖に移行したが、初めて触れた意味怖は私の人生の中の怖い話のトップ層に未だに鎮座している。(興味がある人は「赤い部屋」を読んでみてね。Flashのアレじゃない方のやつです。どっちも怖かったけどね)


映画『パンズ・ラビリンス』の中に真っ当な?拷問をするシーンがあるのだが、そこで、拷問に使う器具は最初に一つ一つ説明するんだ、と言っていた。その道具が自分にどれほどの苦痛を与えるか想像させることで、自白させやすくするらしい。また、村上春樹の『めくらやなぎと眠る女』の中の一節に、「想像が一番痛いんだ」とあった。気がする。中学受験のときに塾のテキストで読んだきりなので少し違うかも。


何が言いたいかというと、想像こそが恐怖の源だということだ。


意味怖の何が私の心を掴んだか。ともすればスルーしてしまうような"日常"に潜む違和感と、そこから推察される結論の異常性、それに気付いたときの血の気が引くような恐怖である。

静かな異常性では、図書館で目が合う話が抜群だと思うので是非興味があれば読んでみてほしい。私はかなり好き。


意味怖も、違和感の理由を想像しなければ怖くもなんともないただの話である。

想像の感覚には底がない。

歯医者でドリルを口に入れられたとき、痛がっているのは神経ではなく己の想像力だ。お化け屋敷に入れないのは、想像で既に怖い体験してしまっているためである。

実際の体験以上の恐怖を、想像は生み出すことができるのだ。


死霊館』では、よく画面の出来事と登場人物の認知との間にギャップを認めることができる。前述の手叩き鬼がいい例だ。

私たち傍観者は想像でそのギャップを埋めようとする。「もし鬼がここで目隠しを外したら、どんなに怖い思いをするだろうか……」

視聴者は想像することによって、登場人物になり変わ「され」るのである。



外観が盛れているものに魅力を感じるのは、古来より生物共通である。カブトムシよりヘラクレスオオカブトの方が人気があるし、下手な地味ホラーよりゾンビやバカスプラッターの方が面白い。クラスで人気者のあいつは背が高くてかっこよくて、学年一かわいかったあの子は美人でスタイルもよかった。


だが、学校一モテるのは優等生の彼だ。

顔は普通なのに何故?

「だって話が面白いから」

「だって頭がいいから」

「だって真面目で誠実だから」


「そういう人って絶対いい人でしょ?」



私は、彼が本当に良い人だったのか知らないまま卒業してしまった。だから、真実は確かめようもない。

みんな彼に夢をみていたのかもしれない。頭の中で「優等生=良い人の彼」を創り出していたのかもしれない。しかし、本当のところは分からない。


ただ、彼はそんなことも解っていたのだろうな、と漠然と思った。


すべて彼の掌の上で転がっていたのだろう。

だって彼は優等生だから。