味覚崩壊は突然に
※ 『Q』: A Night At The Kabuki のネタバレを含みます。
広瀬すずを孫と呼ぶ友人に誘われ、先日はじめて東京芸術劇場に行ってきた。
『Q』: A Night At The Kabukiを観るためである。
演劇を観に行くときはなるべく予習をしていくようにしているのだが、今回はシェイクスピアのロミオとジュリエットに平家物語をMIXした舞台と聞いていたので、特に何もせず頭からっぽで赴いてみた。
いや、そういえばロミオとジュリエットはこのために読んだんだった。
それに、全編Queenの音楽が使われているらしいが、ボヘミアン・ラプソディを観ていない私になす術はなかった。私のQueen知識は空耳アワーで終わっている。
その日は千秋楽で、当日券の長蛇の列がフロアの向こうまで続いていた。
まぁみんな松たか子の舞台は見たいよなぁ、などとぼんやり思った。
中で友人と合流し、席についた。すずちゃんが通るかも、と通路側の席を譲った。
「なんか突然始まるらしいんだよね」
隣で舞台の評判を調べ尽くしてきた友人が言う。
そうは言ってもブザーぐらいは鳴るだろうと私はすっかり慢心していた。
開始時刻になった。
始まる気配はない。
んんー?これは新しいパターンだぞ。
客席が静まるのを待っているのか?スマホの電源を切ったので時間は分からないが、3分は過ぎているだろう。まぁでも5分は誤差かな。それとも千秋楽だから特別な準備でもあるのかな。何故か友人が隣でめっちゃ緊張してる。あ、オペラグラス忘れたわ。でも割と近いしなんとか
ガーーーーーン!!!
それは突然始まった。
遺体安置所だ。
直感的にそう思った。
舞台の壁には回転式の扉が設置され、そこから病院のベッドのような道具を持った人が5人ほど"発生"した。
黒い壁に白いベッド(?)がずらりと並んでいる。前後に動かして、どうやら波を表しているらしい。ベッドはそのまま中心に集められ「舟」になった。人々がそこに乗り込む。
なるほど。このベッドは落語でいうところの扇子の役割を担っているのか。
想像力を使う舞台は久々で、試されているようで楽しい。
「俺も舟に乗せてくれ!」
とロミオ(漢字表記は失念した)。
「お前は乗せられない!」
と偉そうな脇役。
「ならばこの手紙をジュリエットに届けてくれ!」
とロミオ。
いやなんの話?と私。
いきなり付いていけない。みんなが乗る舟にロミオが置き去りにされたのは理解した。ロミジュリにこんな描写はありませんが??
落ち着け。オリジナル・ロミジュリなのだろう。こういうものは世界観に入り込んだもの勝ちである。
なんやかんやで都に届けられた手紙を見るジュリエット。(本当はジュリエだが漢字表記はこれまた失念した)
何故か手紙は真っ白だったらしい。
そこから過去編=平家物語風シェイクスピアのロミジュリが始まる。
ここから前半はロミオとジュリエットそのままなので、あらすじを知りたい人はWikipediaを参照すればよいでしょう。
後半は戦争という運命に引き裂かれた二人のその後をQueenの楽曲にのせて描いている。
舞台は全体的にコメディタッチで、決して飽きさせない、絶対に寝かせないぞ、という脚本家の強い意志を感じた。面白かった。
想い焦がれ、出逢いと別れを繰り返しながら、手紙が真っ白だった理由が徐々に明かされていく。
そして最後の場面でようやく、最初の場面の意味が解るのだ。
寂しいような、哀しいような、それでいてなにか大切なものを手にできたような、そんな不思議な感じのするラストだった。
隣のおじさんがザバザバに泣いていたのも理解できる。
面白い、良い舞台だな、と思った。
すずちゃんの声も良かった。
さて。前置きが長くなりました。
私の感想という名の考察劇はここから始まります。
難しい。こんなに咀嚼しにくい舞台は久しぶりだった。
まず、この話はいくつもの物語を元に作られている。
ロミオとジュリエット、平家物語、エッセンスとしてサロメ、さらにQueen
もしかしたらもっと。
2つの勢力が対立しているという構造上、確かに意外とロミジュリと平家物語の食べ合わせは良いと思う。
そもそも、ロミジュリ構文は戦争において強い汎用性を発揮するのである。
これが別に源平合戦でなくても、戊辰戦争でも米ソ冷戦でも、連邦軍vsジオン軍でも成立したのだろう。何故源平なのか私には分からない。好みかな。歌舞伎だから?かな?
サロメはオタクみんな好きでしょ。偏見だけど。私も好き。
ここでのサロメとはワイルドが聖書を基にして作った戯曲を指す。踊り子サロメが上手く踊れた褒美にヨカナーン(ヨハネ)の首を要求したあの話である。ビアズリーの銀の盆に載せた生首の絵が有名よね。
この舞台では、巴御前がサロメの役割を担っているのだが、巴といえば女の身でありながら敵の首を捻じ切る怪傑である。配役としては順当だろう。
ただ、何故ロミジュリにサロメの要素を入れようとしたのかは定かではない。だって、ロミジュリ・平家物語だけで二項対立の世界観が完成しているのに、新しい要素を入れる必要はあっただろうか。憎しみの役ならサロメの出る幕はないと思うのだけれども。
色気が欲しかったのかな。ロミオとジュリエットとは違った視点での愛を背負わされているのかもしれない。
たとえば、狂愛、みたいな。
Queenは本当に詳しくないので言及できません……。
テーマ?的に使われていた『Love of My life』はまぁ分かりやすい。愛の話だしね。あと耳に残っているのは『The Prophet's Song』だが、これも過去の失敗を未来の自分が変えるという筋に沿っている。
『Bohemian Rhapsody』はそうね、有名な曲だなぁ……。それしか分からない……。
ひと通り舞台について語ったところで、皆様、料理というものを知っているだろうか。
料理とは肉や野菜などの食材を煮たり焼いたりして、人間らしい食べ物を拵えるスポーツのことである。
私は運動神経が悪いので苦手だ。
この間もレンジでアルミのスプーンを加熱して怒られた。
生で食材を齧ることは料理とは言わず、何かしらの手を加えなくてはいけない。
食材の味を生かしました!とか書いてあっても、料理というからには煮たり焼いたりしているのである。
オーガニックで素材そのままとかいうご飯も煮たり焼いたりしている。もうどこを見ても煮たり焼いたりしている。
調和を無視して食材を並べただけの料理は、料理として崩壊しているのである。
この舞台はそんな崩壊を起こしている。
ロミオとジュリエット、平家物語、サロメ、Queen、それぞれの素の味が強すぎるために調和せず、元の物語をつぎはぎしている印象を受ける。
ではオリジナルとは何か?後半の流れは果たしてオリジナルと呼べるのか?オリジナルの定義とはなんだろうか?
物語の型はシェイクスピアにやり尽くされた、とは言い得て妙である。
しかし、この舞台は原色に原色をぶつけ、崩壊を引き起こすことによって、逆説的にオリジナルとして収斂せしめているのである!
そうか!何故Queenなのかいま解った!
味の崩壊という新しい「味」を「食べられる」ものにするために、まったく異なる畑から食材を引っ張ってきたのか!
知っているもので味を整えようってわけね。
うーん 分子ガストロノミーを感じる。
食べたことないけど。
なるほど。咀嚼できないと思ったが、我々は味覚実験の被験体だったわけだ。
言い方が悪いか。ならば冒険心の強い美食家と言い換えよう。
だったら難しいのも当然だ。
だって崩壊の統一を味わっただなんて意味が分からないでしょう?
何度も経験して初めてその存在に意味や役割が付加されるのだ。
「なんか突然始まるらしいんだよね」
私は口をあんぐり開けて、新感覚を受け入れるしか出来なかった。
もう一度味わって確認したかった。
この感覚を確かなものにしたかった。
観劇後、ロビーを出て、当日券の列があったフロアに目をやった。
フロアは暗くなっていた。
千秋楽だったから、もう列ができることもないだろう。
お腹空いたね、なんて話しながら、私たちはフロアとは反対側のエスカレーターを下っていった。